JGC通訳ボランティアBLOG

2011年5月29日日曜日

5月23日~24日_オランダ国営ラジオ同行②

【2日目】

 二日目は、福島県内の原発関連の実態取材。

 福島県の伊達市のある農家に取材協力を得て、話を伺う。
果樹農家を営むI氏。

 音を拾うために、田園へ。
近隣の小学校の校長先生達が、授業のために借りている田んぼに線引きを一所懸命に行っている。

I氏のインタビュー途中、子供たちがやってきた。
いつもと違う景色。全員がマスクをしている。

 I氏の話によると、毎週組合から届く週報に記載されているベクレル測定値を信じるほかないという。
 福島県が主導となり、安全基準値の目安を設定しており、その測定値からかなり低いレベルで検出されている地域で、組合からの指導によって農作物の出荷を行っている。
 国も支援してくれているのだろうが、実際のところ末端の農家には感じ得にくい。
自分達が食べているものをどうやって安全だと証明すればいいのか、より一層のメディアの情報のきめ細やかさが必要である。

「雀も燕も、原発のことなんて何も知らないで飛んでいる。私達も大変だが、動物たちはもっとかわいそうだ。」
自然の中に生きている全ての動植物に対していえる言葉が、響く。

 後で聞いた話だが、あの日娘さんとお孫さんは仙台の夢メッセにいた。テレビでも放映された場所。
 2階に一旦逃げたものの、さらに危険とのことで車で避難。なんとか8時間かけて福島県内の自宅にたどり着いたとのこと。
その娘さんとお孫さんにもあったが、何とも元気そうで良かった。

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 午後からは、宮城岩沼市沿岸沿いの農家の取材。

 大きな母屋にも、1.6mの高さだろうか?津波のあとの線がくっきりと残っていた。
Mさんの家は、沿岸部から約2キロ弱のところにある。
 あの日のことを詳しく語ってくれた。
 地震のあった時、Mさんは近くの自治会集会所に行く。自身が係をやっているから、町内会に地震の避難を呼びかけるためだ。
 20分ほどで自宅に車で戻ったところ、家に着く手前で既に津波が遠くから来ていた。
家にいた奥さんと息子さんとは、声を出しても届かない距離。30mほど離れていただろうか?海から3棟目のビニールハウスに逃げ込んでいる姿を見たとのこと。

幸い、隣家の方が二人に声をかけてくれたようで、家族別々に避難した。
「遠くから、黒い壁が近づいてきた。どれくらいの速さかもわからないが、とにかく黒い壁だった。」
 3棟立つビニールハウスのうち、2棟は屋根が落ち、何とも言えない曲線が描かれている。
ビニールハウスといっても、かなりしっかりとしたアクリル製のようだが、こんなにも壊れてしまったのか…というほどのありさま。
 母屋のとなりに立つ、古い家屋。こちらも1階部分は全て押しつぶされ、中にあった農機は全てつぶれてしまった。
片方からはみ出して見える軽トラックも、無論使い物にならないだろう。

 塩害のせいで、最低でも向こう3年は畑が使い物にならない。
 そう語るMさんだが、次に何をやろうか(植えようか)、いろんなことを話してくれた。
借金が残ろうと、積み重なろうと、この土地が好きで野菜を作るこを生業としている。だからまたやらなければならないんだ。
 そんな風に、暫くはこの土地で作物を作ることができないにも関わらず、未来に向かって進もうとしているMさん。
このような状況のなかで、どうしてそんなにも前向きになれるのだろう。力強く前に向かおうとしているMさん家族の姿には頭が上がらない気分だった。

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 この二日間、通訳として対応して、自身であれば聞けないだろう質問もたくさん通訳した。
無論、感情的になることは許されないことは踏まえているつもりだが、話してくれる方の意思の強さにも感服した。
 淡々とメッセージを伝え、「今」のこの状況が少しでも多くの人に伝わってほしい。
そして、「誰」が支援しなければダメだ、等を言っている場合ではなく、少なくともこれからも支援が必要な人たちがたくさんいる事実を知ってほしい。
テレビやラジオを通して知り得る情報は限りある。だが、それは全体の一部でしかない。

 たくさんの支援活動を行っている人たち、未だ偏った形でしか支援を受けていない人たち、そんな人達の現地からの声を世界に発信するべく、これからもお手伝いが出来ればと強く心に思った。

5月23日~24日_オランダ国営ラジオ同行①

5月23日(月)、24日(火)の二日間、オランダの国営ラジオ局の取材対応を実施。
主に今回の目的として、現在既にヨーロッパでは東日本大震災の報道よりも中東情勢及びIMFの問題などが取り沙汰されている状況。
以前日本に4年ほど住んでいたNOSの記者が、自分の好きな国についての現在の状況をヨーロッパに発信し、日本への支援を呼びかけを目的として取材を行った。

【1日目】
 IMC(International Medical Corp)のワークショップが仙台で開催されていることもあり、JGC通訳ボランティアとしても通訳派遣を行っていた。
この情報を記者に伝えたところ、取材インタビューを行いたいとのことで、朝8時半過ぎから仙台市内でのホテルで取材開始。
 現在、宮城県を中心にメンタルケアの必要性について、IMCが会合を数回行っている。日を追うごとに、被災者の心のケアの必要性は高まっており、またそのケアを行う人達へのケアも必要になってきている。
これは、宮城だけに言えることではない。
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 朝のIMC取材の後、石巻の小学校での取材。
 取材に応じてくれたのは、蛇田小学校。今回の取材の主旨をご理解いただき、了承をいただいた。
この学校は、比較的被害を免れたエリアにある学校。
現在、被災した児童を受け入れているこの学校では、未だ給食はパンと牛乳のみである。
先生は、「6月になったら、もう少し暖かいものとか食べれるんで」と明るい声で話していた。
 子供たちは元気よく、大騒ぎで校内を駆け巡る。
「その音が大事」と、記者は鳥のさえずりや学童の駆け回る足音、すべてを録音し、て耳からすべてを伝えるラジオについて教えてくれた。
 先生の中にも被災している方がいる。自分も心身共に疲労されているだろうに、子供たちのために元気づけている姿が痛々しい。
何か少しでも役に立てれば…。微力な自分が悔やまれる。
 お昼ご飯の場所を探す。
未だ、石巻市内でもお昼を食べられるところは限られている。無論ナビなどアテにならない。
ナビで表示されていても、実際には被災して閉店しているところが多いからだ。
 石巻は、大分復旧が進んでいる。
この「復旧」のレベルが何を指すのか?
 避難所での生活者がいなくなることを指すのか?
半壊状態の家の2階で過ごす人もいるなか、メディアで伝えられている情報は、ほんの一部でしかないことを、家々を見ながら改めて思った。
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 午後からは、女川第二小学校へ。
 震災当日の話を先生から聞いた。
 高台にある、この小学校。校庭の高さ付近まで津波が来た。
先生達は、子供たちに津波を見せないよう、移動させた。無事、欠席者も含めて全ての学童の安否が確認されたのは、震災の3日後。
 先生達は、学童とともに宿泊し、安心を与えることに徹底。
帰り際に見かけた学童が屈託なくはしゃぎまわっているのは、この先生達のおかげでもある。
 学校だよりの中から、以下の文章を紹介してくれた。
「女川は流されたのではない 新しい女川に生まれ変わるんだ」
「人々は負けずに待ち続ける 新しい女川に住む喜びを感じるために」
「今はとてもたいへんだけれど、みんなと協力してがんばっていきます。応援してくれるみんなにありがとう。」
「”今”伝えたいことば~この災害で思ったこと~
 自分のたった一つの命を大切にすること!この世にいらない命はない!いつも笑顔でいること。それだけは忘れないで!」
「女川は壊滅的な被害を受けましたが、負けないでがんばっていこうと思います。まげねっちゃ女川!」
これらは全て学童の言葉である。小さな子供らが前向きであることは、大人たちへの励みになるであろう。
胸が熱くなった。
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 近くにある、避難所。女川総合体育館。
 この町は、漁港を山が取り巻いている地形をしており、いくつかの公共施設は高台にある。
この体育館も、そのうちの一つで、たくさんの方が未だに避難所生活を送っている場所だ。
 二組の方に取材をしたが、そのうちの一人の男性。
 年老いた母が自宅にいて、職場から帰宅。二人で二階に避難。家ごと流され始めて、運よく別な家の1階屋根部分に乗り移り、一晩を過ごした。
津波が引いて、たまたま乗り移った家に瓦礫がたまっており、地面へ降りることができたという。
 流れた自分の家の二階部分は全て壊れてなくなり、あのままだったら無理だった。そう淡々と語っていた。
 自営業を営まれているこの方は、家族全員無事である。
だが、オフィスももちろんなくなり、借金もある。この状態で仮設住宅に移っても、光熱費等は各自の負担となる。さらなる借金が出来るばかり。
無事で何より。だがこの先に行く未来にどう向かっていけばよいのか、まだ考えられない。だが、前向きな心持と思える何かわからないが力強いものをその人から感じた。

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 初日の取材を終えて。
2か月と少し経過したこの時期、ようやく事実を受け止めることができ始めた。そんな感じがした。
今までは茫然と日々やり過ごし、余震の恐怖からも逃れることが出来なかったのではないだろうか?
話を聞く側としても、これが1か月前だったら通訳として対応できただろうか?被災した方の話を聞くだけで、自身も耐えられなくなっているだろうと容易に想像できる。
現地の状況をメディアだけではなく、自分の肌で得てきたものを伝えるべき。改めてそう感じた初日。

5月9日~5月19日_タイ王立医療チーム報告

 5月9日(月)から5月19日(木)までの約2週間、タイの王立病院から小児科チームが派遣された。

JGC通訳ボランティアより通訳派遣1名にて、この間の対応を実施。述べ福島県内15か所の避難所を回り、避難所の乳幼児の健康管理を目的に対応した。

 タイからのチームは、王妃の名前が掲げてあるバンコク駅近くQueen Sirikit National Institute of Child Health よりナリット・ワラナット医師55歳とルンティワー・アサウィナノン看護師55歳の2名。
 福島県立医大病院んは、原発関連の避難者に対する医療健康維持を最前線で対応している病院である。
今回のプロジェクトも福島県立医大の元で活動を行った。

【避難所の状況】
 全般的には、乳幼児の人数が少ないとのこともあり、緊急を要す対応はなかったことは、幸いである。
 市街地に近い避難所と、山間部に位置する避難所とで大きく状況が異なる。主に山間部では、市街地へのアクセスが避難者によって異なるため、微妙に健康状態が異なっている様子。
主に近隣に親戚等がいない、または年配の方はお金を気にして町まで出かけないなどの実態がある。
 地域的な人間性もあるようだ。主に「浜っこ」と呼ばれる沿岸部の方々は、比較的明るい感じがしたが、内陸部に行くにしたがって、少し閉鎖的なイメージが取れた。
だが、時間をかけて話をすることによって、コミュニケーションが取れていく。
 これは、宮城であろうと福島であろうと、「話す」必要性が高いことを示していることには変わりない。
人を癒すのは人でしかない、そう感じた場面が多々あった。
 各避難所は町村毎に分散して避難しており、一次避難者と二次避難者に分かれる。
一次避難者>着の身着のまま避難している方。
二次避難者>ある程度の期間の生活を想定して避難している方。
 避難者によって持参しているものが極端に少なかったり、人によってはものが行き届いている人がいる。
おそらくこの格差はなかなか解消されないのではないか?様々な状況が重なり、誰が悪いとは言えない状況でこのような形になってしまっている。
この点は今後も続く大きな課題であると思われる。

【通訳対応】

・専門用語としては、主に小児向けの薬についての日本名と英名の違い。
 具体的には、日本名での薬が商品名であることが多く、どのような薬なのかがすぐに分からなかったため、チームが持参する薬のリストを元に対訳表を作成。
 成分等についてもナリット医師に説明を求められたため、対応開始後にかなりのリサーチが必要になった。初日以外はほぼスムーズに解消された

・小児科として巡回していたが、「お医者さんが来る」とかなり期待されているところが多かったため、大人の方の対応が大半だった。
 前述と同様、薬に関する点が一番難しい点であった。
 既に処方されている薬について、追加での処方を希望されている方が多く、現在の健康状態のチェックとそれに合わせた処方箋についての確認作業にて、日本人医師との通訳対応を実施。
 細かい診断や、病名・症状名については、日本人医師が英語での対応をしていただいたため、通訳を介さずに直接意思疎通を図っていただける状況にあり、スムーズであった。

・通訳としての主な対応範囲としては、既往歴の問診・震災後の状況や家庭環境等、全般的な「ヒアリング」の際の対応であり、時間的には朝から夕方までと長かったものの、医療専門知識の範囲は比較的少なかったように思われる。

・小児科、産科などの対訳表を持参したものの、殆ど使わなかった。

・タイチームの先生方は興味の範囲が広い→日本の雑誌についてや、車、家、生活形態など等好奇心あふれる方々で、医療以外の分野での通訳については、外務省の方に助けていただいたところがたくさんありました。ありがとうございます。

・方言について→これは主に年配者の対応の際に特化していえることだが、対応者自身宮城・福島での在住経験があったため問題視していなかったが、第三者からすると日本語が一部聞き取りにくいところがあった様子。
 今回の災害対応での通訳については、被災地の方言を理解できる通訳者が必要であるという側面も想定しておく必要がある。

【良い話】

・我々チームも情報が不足している中、障害者施設の方がそのままそっくり避難している場所があった。専門外であったにもかかわらず、「お医者さんと話したい人」が行列をなす。
 先生たちは、一人ひとりに耳を傾け、カルテに記載していく。その最後の処方箋には「家族の避難場所の連絡先電話番号」。別々に避難して、電話をかけたくてもかけられない状況にあった人に電話番号を教えてあげることが、その人への処方箋だった。

・これから、日本はどう進んでいけばいいか?そんな会話のなかで、日本の良いところとして奈良の大仏の話になる。
 「建築途中でもまだ見ぬ大仏像の完成に向けて、途中失敗しても何度も何度も完成させようと作りあげていけるのが日本人ではないか?
 それは明るい未来(大仏像)のイメージを作り上げているからこそ出来る力がある。」

・避難所でのおばちゃんたちとの会話。
 「いつも家にいたばっかりが、避難所では知らないたくさんの人に会って忙しい。おかげで10年若返ったわ♪」

・3月14日から避難所生活のおじいさん。
 「先週おっかんが脳溢血で入院した。見舞いに行きたくても、金がないから遠くの病院まで見舞いに行けない。だからタバコもひと箱から10本に減らした。」
 「誰かつれて行ってくれる人を探しましょう」
 その避難所をちょうど出ようとした際、息子さんが連絡があって、お見舞いにつれて行ってもらえることになった。
 おじいさんの元々の笑顔がもっとにこやかになった。
ものを送るだけが支援ではない。人が人で助けられる、そんな場面が多々あった。

2011年5月23日月曜日

【メディア】Devex Japanの取材を受けました

メディア情報です。

Devex Japanから取材を受け、記事がホームページ上に掲載されました。

 Devex Japan


海外NGOの活躍の裏に「通訳ボランティア」あり


以上、ぜひご覧ください。



JGC通訳ボランティア事務局

2011年5月14日土曜日

ヨルダン王立医療チーム任務完了

5月12日木曜日。
 約3週間の活動期間を無事に終えて、ヨルダンからの医療チームは帰国の途につきました。

4月25日からの長期期間において、彼らは主に避難所の皆さんの下肢血栓の検査を実施。
この間、JGC通訳ボランティアより8名の通訳ボランティアの方にご協力をいただき、彼らの活動を支えてきました。

 避難所によって、被災者の方の健康状態が如実に異なり、山間部や市街地から遠い場所の避難所では、あまり外出する傾向がないため、同じ姿勢でいるためか血栓の発見率も多く、また市街地に近い場所の避難場所では、買い物等外出しやすい環境にあるためか、発見数も少なかった様子。

 ヨルダンからは、医師のオマール氏、モハメド氏、またエコー検査技師としてイマーン氏、アブドゥラ氏の計4名。
 おもに二つのグループに分かれて、其々1名ずつ通訳が付きました。

 看護師による事前問診ののち、検査チェックフローを元に、既往歴を聞きながら、エコーで検査。
場所によって異なりますが、半日で20名以上の検査を行う日もありました。

 彼らのチームワークは素晴らしいもので、言葉の壁を乗り越えて積極的に活動していた姿が目に焼き付いています。

 オンとオフの切り替えも得意としているようで、(中東の方々の容姿から想像するには難しい)ジョークなども飛び交い、人々の気持ちを和らげてくれていたり、私の知る”ヨルダン”という知らない国の人たちがこれほどまでに支援していただいたことに、感謝の一言であります。

 日本で起きたこの被災は想像を超えた酷い状況である。だがヨルダンと日本の絆はこの悲惨な出来事を打ち砕く強いものとなった。

 在日ヨルダン大使の言葉が強く心に残りました。

ヨルダン医療チームの皆様、福島県立医大の皆様、外務省の皆様、そして通訳ボランティアにご協力いただいた皆様、全ての方のチームワークのおかげで、被災地の少しでも多くの方の健康が維持されましたことを、皆様にお伝えしたいです。

 どうもありがとうございました。

そして、未だ孤立している地域への支援は続きます。
皆様のお力をどうぞお貸し下さい。

これからもどうぞよろしくお願いします。


その他の写真はFACEBOOKにて
JGC通訳ボランティア事務局

2011年5月12日木曜日

【通訳ボランティア活動記録】 Back Number (3)

○陽気なチリ人パイロット、P氏
  石巻専修大学グランドで米国人・台湾人SCスタッフとOがテントを設営していた時のこ
と。フライトジャケットを来た外人が我々に歩み寄ってきた。
  話を聞くと、今回の震災に係る物資・人員輸送・VIPの視察対応等の支援のため、エリ
クソン社が1ヶ月間チャーターして派遣したヘリコプターのパイロットであった。
(※以下、英語でのやり取りだが、Oのイメージが含まれている)
 P「あんたら、どこからきたん?」
 
O「アメリカとか、台湾とか、埼玉とかいろいろ。おっちゃん、ここで何してんの
ん?」
 P「あそこに見える。ヘリコプターのパイロットやねん。チリからきてんけどな。」
 O「あのヘリも、チリから飛ばしてきたん?」
  P「あんたアホやな。そんなんしたら日が暮れるやん。ロシアの大型輸送機で運んでも
ろてん。あんたらの物資や人を孤立地域や離島に運ぶ必要があったら、いつでも言うて
や。俺のヘリやったらな、トン単位の物資、人やったら15人ぐらいは楽勝で運べるさか
いにな。タダやしな。ほな、行くわ、ご機嫌さん。」
  というと、道路を挟んで向かいの仮設ヘリポートから人と物資を満載して颯爽と被災地
へ向け離陸していったP氏であった。
 陽気なP氏との立ち話であったため、英語での会話なのに、なぜだかOには大阪弁で会話
しているような気分だった。
  エリクソン社のみならずホンダや森ビルなどヘリコプターを保有している多くの日本企
業が無料の物資輸送への協力を申し出ている。他方、日本の航空行政側は災害派遣機の飛
行規制緩和の面で追い付いていないとも聞く。
  海外の善意と行政当局との間のコミュニケーションの一助となることも、JGC通訳ボラ
ンティアの重要なミッションであると感じた。

以上 JGC通訳ボランティアOの報告

【通訳ボランティア活動記録】 Back Number (2)

 ・ケース2:新高校3年生
    避難所のグランドでサッカー(といっても2人でロング・ボールのやりとり)を楽し
んだ後での会話。
  O「サッカーうまいね。何年生?」
  高「高3っす。ほんとは野球部でピッチャー4番打ってます。」
  O「地震のとき野球部は大丈夫だった?」
    0「僕ら在校生は、先輩の卒業式のために学校で準備していたので全員無事です。け
ど、先輩方は家におられたので亡くなられた方もいます。」
  O「。。。。。(絶句)」
    3・11の惨劇を語る高校生の表情があまりに爽やかなので、次の言葉をしばし探せ
なかった私がいた。
今後、被災者のみなさんには、生活の復興という重い現実がのしかかってくる。ここ
ろのケアを含め、個々人の家庭・個人へのきめ細かい、長期的な支援を怠ってはならな
いと強く感じた。せっかく助かったかけがえのない生命を失わないためにも。

【通訳ボランティア活動記録】 Back Number (1)

SC-0は、4月13日水曜日深夜に仙台・宮城野区に向けて東京を出発。翌朝から実質3.5日の
現地活動を開始した。
  SCはハイチでも実績のある国際救援隊である。4月13日時点で約40名が、石巻(仙台
ベース10名)、女川((現地キャンプ20名)、気仙沼(会員の実家を拠点に10名)におい
て、マッサージ提供、物資提供、物流・労働支援、を中心に展開していた。
SCのメンバーは、米国、英国、オーストリア、オーストラリア、ドイツ、メキシコ、スペ
イン、台湾、日本の10の国と地域で構成されている。
  このような環境の下、JGCボランティア通訳に求められるミッションについて、以下の
3点であることをSCの現地責任者と確認をした。
1 SCメンバーによる支援活動提供時の通訳。
2.被災地・被災民、SC以外の自衛隊等支援組織およびSCメンバー間の文化・言動ギ
ャップの緩和・アドバイス(例えば、被災者を考慮したマスク着用の有無等)。
3.SC現地活動環境改善に係るアドバイス・調達支援(ネット環境や設備・備品購入時の
サポート等)
換言すれば、単なる「言語の通訳」ではなく、JGCボランティア通訳が要支援者と支
援者の“こころの架け橋”になることであり、まさにJGCボランティア通訳事務局設立の
趣旨と合致している。また、この点は、対SCのみならず他の国際団体と今後協働してい
く上でも、大変重要なポイントであると考えている。
さて、SC-0隊員Oとしては、今回初めて現場・現物・現実ベースで被災地と関わりを
持ったが、そのいくつかをご紹介させていただく。
○3・11を語る被災者の方に共通する表情
  数名の被災者の方、老若男女と親しくお話をする機会を得たが、みなさんに共通するこ
とは、被災状況を語る表情が実に淡々としていて、Oにはまるで物語を読み聞かせてもら
っているような印象を受けた。ひとは、大きな衝撃をうけたとき、感情をこころの扉の奥
底に鍵をかけてしまいこむ、といったことを学んだことがあったが、語られる内容とみな
さんの表情の間に、なんとも表現し難い違和感を覚えた。
 ・ケース:80歳前後の婦人
  避難所のグランドでの立ち話。
  O「おはようございます」
    婦「おはようございます。今日は少し暖かいですね。さっき山の方に歩いていったら
花芽がほころんできているの。もう春ですね。」
  O「そうですね。早く暖かくなるといいですね。」
    婦「私の身内も随分と亡くなってしまったけど、寒いと避難所生活も大変だからね。
ところで、みなさんはテントで寝泊まりしているの?  朝晩冷えるのに大丈夫?  ご苦労
さまですね。」
    しばし、世間話をして立ち去る夫人の右手には、バケツとタオル、そしてお線香の箱
が。夫人が遺体安置所の方向から歩いてこられたこと、きっと早朝からご遺体に寄り添
っておられたであろうことに、不覚にもその時になって初めて気付いたOであった。どこ
にでもある世間話、どこにでもある青空。しかし、そこには被災という重い現実がある。

2011年5月10日火曜日

【募集】5月20日-22日セミナー通訳者募集

宮城県仙台市内大学におけるセミナー通訳(日英・5/20-5/22)募集

■募集対象:
 サポーターの方で、健康な方。3名(2名対応、1名スタンバイ)。逐次通訳。

(1)現地仙台在住であること、もしくは東北大学内会場まで自身で通勤可能であること。
 ※現在宿泊場所の確保が難しいため、仙台市内もしくは仙台近郊在住の方で通訳が確保できる方が優先となります。

(2)心理学もしくはメンタルヘルスに関する知識、経験があること。
 ※会議・セミナー通訳経験などが重要となりますので、必ず応募の際には経歴等詳細に記載願います。
ただし分科会で話す内容、配布資料などは事前にプレゼンターからいただき、通訳の準備をしていただくことが可能です(入手時期未定)。

■日程・場所:
 5月20日(金) 前日打合せ(時間未定)
 5月21日(土) 11時~18時 大学(宮城県仙台市)内会場においてセミナー
 5月22日(日) 同上

■業務内容:
21日、22日にそれぞれ3時間程度、小グループ(20人以下)に分かれた分科会があり、その両日とも1つのグループにて逐次通訳をお願いいたします。
※時間については、変動する可能性が高いため、おもに終日対応な方のみお申込みください。

■参加申し込み方法:
 サポーター登録済みの方が前提です。
 件名に「仙台市内大学におけるセミナー通訳希望_名前」と明記し、jgcvib@gmail.comへご連絡ください。
 連絡先電話番号、通訳経験、年齢、ボランティア保険の加入有無、スタンバイ対応可否についてを記載願います。
※ボランティア未加入の方については、JGC通訳ボランティア事務局にて手続きを行います。既加入の方については、必ず明記ください。
※本件につきましては、一部の日程のみの応募はお断りします。
※確定者に対しては、追って事務局よりご連絡させていただきます。必要書類等の記載及び写真提供(ID作成の為)のお願いをさせていただきます。
※確定後、JGC通訳ボランティア事務局のキャンセルについては、ボランティア保険料を請求させていただく場合があります。

■申込締切:
 5月13日(金) 午前10時メール到着分まで
※5月16日(月)に、確定者のみにご連絡させていただきますので、ご了承ください。
■その他:
※依頼団体の都合により、日程変更・開催キャンセルとなる場合もあります。
※交通費については、自費で対応可能な方のみとなります。
※スタンバイいただく方→依頼団体側での人数追加要請、及びメイン担当者の体調不良等の際に急遽対応いただく方となります。
■お問い合わせ
 事務局 : 03-3233-7518 10:00-17:30(月~金)
 時間外 : 090-6529-9697 オオサキ宛 (出ない場合は、留守電を残してください。コールバックさせていただきます)

0510_JGC通訳ボランティア事務局より

サポーターの皆様、またこのブログを閲覧されている皆様へ

 お世話様です、JGC通訳ボランティア事務局です。

インドチーム報告会以降、情報のアップデートが遅れおりまして恐縮です。

以降の情報概況としては、以下のようなプロジェクトが進行中です。

4月25日より現在までにヨルダン王国医療チーム派遣
5月9日よりタイ王国医療チーム派遣
その他、海外NGO等団体の翻訳作業

また、近々国際会議等の通訳などの予定があります。
 しかしながら、ボランティア団体でありつつ、いくつかの条件等があり、web上での募集を行わない場合がございますので、ご了承ください。

個別にメールにてお問い合わせいただく方へ
 誠に恐縮ですが、ご希望の方々への個別のご質問にはすべてお答えすることができません。
ご本人のご都合をお知らせいただく場合がありますが、プロジェクト自体、突発的に発生するケースも多く、急ぎの場合等については、ご連絡できない場合がございます。

事務局のメンバも、全て”ボランティア”での活動であることをご理解ください。

また、各プロジェクトの状況報告については、順次アップデートしていきますので、今しばらくお待ちくださいませ。

以上何卒ご理解とご協力のほど、よろしくお願いします。

JGC通訳ボランティア事務局 保坂