JGC通訳ボランティアBLOG

2011年5月29日日曜日

5月23日~24日_オランダ国営ラジオ同行②

【2日目】

 二日目は、福島県内の原発関連の実態取材。

 福島県の伊達市のある農家に取材協力を得て、話を伺う。
果樹農家を営むI氏。

 音を拾うために、田園へ。
近隣の小学校の校長先生達が、授業のために借りている田んぼに線引きを一所懸命に行っている。

I氏のインタビュー途中、子供たちがやってきた。
いつもと違う景色。全員がマスクをしている。

 I氏の話によると、毎週組合から届く週報に記載されているベクレル測定値を信じるほかないという。
 福島県が主導となり、安全基準値の目安を設定しており、その測定値からかなり低いレベルで検出されている地域で、組合からの指導によって農作物の出荷を行っている。
 国も支援してくれているのだろうが、実際のところ末端の農家には感じ得にくい。
自分達が食べているものをどうやって安全だと証明すればいいのか、より一層のメディアの情報のきめ細やかさが必要である。

「雀も燕も、原発のことなんて何も知らないで飛んでいる。私達も大変だが、動物たちはもっとかわいそうだ。」
自然の中に生きている全ての動植物に対していえる言葉が、響く。

 後で聞いた話だが、あの日娘さんとお孫さんは仙台の夢メッセにいた。テレビでも放映された場所。
 2階に一旦逃げたものの、さらに危険とのことで車で避難。なんとか8時間かけて福島県内の自宅にたどり着いたとのこと。
その娘さんとお孫さんにもあったが、何とも元気そうで良かった。

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 午後からは、宮城岩沼市沿岸沿いの農家の取材。

 大きな母屋にも、1.6mの高さだろうか?津波のあとの線がくっきりと残っていた。
Mさんの家は、沿岸部から約2キロ弱のところにある。
 あの日のことを詳しく語ってくれた。
 地震のあった時、Mさんは近くの自治会集会所に行く。自身が係をやっているから、町内会に地震の避難を呼びかけるためだ。
 20分ほどで自宅に車で戻ったところ、家に着く手前で既に津波が遠くから来ていた。
家にいた奥さんと息子さんとは、声を出しても届かない距離。30mほど離れていただろうか?海から3棟目のビニールハウスに逃げ込んでいる姿を見たとのこと。

幸い、隣家の方が二人に声をかけてくれたようで、家族別々に避難した。
「遠くから、黒い壁が近づいてきた。どれくらいの速さかもわからないが、とにかく黒い壁だった。」
 3棟立つビニールハウスのうち、2棟は屋根が落ち、何とも言えない曲線が描かれている。
ビニールハウスといっても、かなりしっかりとしたアクリル製のようだが、こんなにも壊れてしまったのか…というほどのありさま。
 母屋のとなりに立つ、古い家屋。こちらも1階部分は全て押しつぶされ、中にあった農機は全てつぶれてしまった。
片方からはみ出して見える軽トラックも、無論使い物にならないだろう。

 塩害のせいで、最低でも向こう3年は畑が使い物にならない。
 そう語るMさんだが、次に何をやろうか(植えようか)、いろんなことを話してくれた。
借金が残ろうと、積み重なろうと、この土地が好きで野菜を作るこを生業としている。だからまたやらなければならないんだ。
 そんな風に、暫くはこの土地で作物を作ることができないにも関わらず、未来に向かって進もうとしているMさん。
このような状況のなかで、どうしてそんなにも前向きになれるのだろう。力強く前に向かおうとしているMさん家族の姿には頭が上がらない気分だった。

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 この二日間、通訳として対応して、自身であれば聞けないだろう質問もたくさん通訳した。
無論、感情的になることは許されないことは踏まえているつもりだが、話してくれる方の意思の強さにも感服した。
 淡々とメッセージを伝え、「今」のこの状況が少しでも多くの人に伝わってほしい。
そして、「誰」が支援しなければダメだ、等を言っている場合ではなく、少なくともこれからも支援が必要な人たちがたくさんいる事実を知ってほしい。
テレビやラジオを通して知り得る情報は限りある。だが、それは全体の一部でしかない。

 たくさんの支援活動を行っている人たち、未だ偏った形でしか支援を受けていない人たち、そんな人達の現地からの声を世界に発信するべく、これからもお手伝いが出来ればと強く心に思った。

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