JGC通訳ボランティアBLOG

2011年6月28日火曜日

6月23日、遠野にて。その1

3か月と1週間ほど震災から経過した。

我々の活動も相変わらず地味ではあるが、「相変わらず」忙しいことも確かである。

被災地の人たちの状況が複雑化するなか、ボランティアのニーズも複雑化しているのを知っていただきたい(汗)。


その日、我々としては久しぶりの岩手県での活動。

九州から北上した、低気圧がこのあたりで停滞しているのだなぁと、陸前高田への道すがら、地域の距離を感じた。


朝には、いやな地震が起きていた。

慣れているはずの、あの下から少しずつ来る揺れ。
横揺れから静かに始まり、後には激しい縦揺れとなる。

おそらく都会から来たであろう、ガウン姿の関西弁の男性は、「このまま外へ出てええんやろか?」と、ホテルのスタッフに確かめていた。


被災地にいると、日々慣れ親しんでしまう地震。おそらくこれは眩暈であろうか?いや、地震!

そう後から気づくが、一日で10数回起こる地震のうちの一つでしかない。

東京とは、関西とは雲泥の違いだろうと、今いる環境を確かめる。ここにいる人たちにとってはまともでいられないのではないかと、つくづく思う。


その日は雨。「蒼」、「碧」、なんと例えればよいのか、目に入り込んでくる新緑の季節。こんな地震がなければ、この地の人々も自然の恵みを敬っていただろう景色であった。

1時間半もすると、陸前高田の町に着く。地盤沈下で70-80cm沈んだ海辺の町。
無論、私は知らなかったが、その海と街の狭間には100年以上の樹齢の松林があったそうだ。

先祖から受け継いだこの土地に建てた家がすべて流された。町のほとんどは、今は綺麗にがれきとして積み上げられている。山裾の避難所に、追いやられた避難した人達。寸分違わず、あの日の寒さを凌ぐための畳一枚の話を聞いた。

過酷な環境であったのは想像し得ないことではあるが、我々からすると下手に感情的に高齢者への立場を同情してしまいがち。詳細は誤解を招くため伝えられないが、要するに少しの違いによって、ある人にとってはとてもつらい日々であったことには間違いない…と思われる状況である。

テレビを見ているおじいさん。

そのおじいさんは、私からすると意外な感覚であったが、福島の原発問題のことを心配していた。自分の(先祖代々受け継いできた)家が流されて、未だそこに再建できる資金的・安全的目途もたたないにも関わらず、原発問題にさらされている人々を「心底」心配している姿がそこにあった。

しかしながら、陸前高田も津波の引き波で砂が詰まってしまった下水や側溝の砂だまりのせいで、町はまるで田圃のように冠水している。いつなのか、梅雨明けだろうか?彼らの明るい見通しが立つ季節が夏前であってほしい。

私達からすれば、福島も宮城も岩手だって。いずれも比較のしようがない大変な状況。

ひたすら話を聞いて差し上げることしかできない、歯がゆいほどの(通訳)ボランティア。




それでも腹は減る。

遠野について、昼食場所を探す。被災地をご存じの方はわかるだろろう、見つかりにくいごはんを食べるところ。

ひょんなことから見つけた年配夫婦の営むラーメン屋。juishとvegitarianの二人に対して、ラーメン屋も酷だったが、その夫婦は昼時の忙しい混雑のなか、肉を除いた野菜チャーハンを作ってくれた。

それを待つ間、突然客の一人のおじさんが話しかけてきた。

「ボランティアに来てくれてありがとうね!!!で、おたくはナニやってるの???」

ガイジン+派手な色のジャンパー(?)を着ている=ボランティア …らしい☆

そのおじさんは、遠野の米自慢をしこたま嬉しそうに「俺はあきたこまちも好きだ」「でも遠野はやっぱりひとめぼれだ」と、自信たっぷりに語っている姿が素晴らしいと、正直涙が少々目に溜まってきた。


人がいない田舎だったら、いろいろなことを思い巡らすことも無い。

ただ、
今、
あの時から、
今まで。

 ここにいる、被災地いにる、この人たちが乗り越えてきたその姿を、尊敬するとともに、微力ながら少しでも被災地・被災者のために何かしたい!という気持ちだけで、この土地まで来たJGC通訳サポーターの二人の気持ちを私は強く尊重したいと、改めて感じた瞬間でもあった。

この二人は、被災地福島相馬エリア及び仙台から来てくれた被災者の一人でもある。

(その2へ続く)

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