JGC通訳ボランティアBLOG

2011年5月29日日曜日

5月23日~24日_オランダ国営ラジオ同行①

5月23日(月)、24日(火)の二日間、オランダの国営ラジオ局の取材対応を実施。
主に今回の目的として、現在既にヨーロッパでは東日本大震災の報道よりも中東情勢及びIMFの問題などが取り沙汰されている状況。
以前日本に4年ほど住んでいたNOSの記者が、自分の好きな国についての現在の状況をヨーロッパに発信し、日本への支援を呼びかけを目的として取材を行った。

【1日目】
 IMC(International Medical Corp)のワークショップが仙台で開催されていることもあり、JGC通訳ボランティアとしても通訳派遣を行っていた。
この情報を記者に伝えたところ、取材インタビューを行いたいとのことで、朝8時半過ぎから仙台市内でのホテルで取材開始。
 現在、宮城県を中心にメンタルケアの必要性について、IMCが会合を数回行っている。日を追うごとに、被災者の心のケアの必要性は高まっており、またそのケアを行う人達へのケアも必要になってきている。
これは、宮城だけに言えることではない。
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 朝のIMC取材の後、石巻の小学校での取材。
 取材に応じてくれたのは、蛇田小学校。今回の取材の主旨をご理解いただき、了承をいただいた。
この学校は、比較的被害を免れたエリアにある学校。
現在、被災した児童を受け入れているこの学校では、未だ給食はパンと牛乳のみである。
先生は、「6月になったら、もう少し暖かいものとか食べれるんで」と明るい声で話していた。
 子供たちは元気よく、大騒ぎで校内を駆け巡る。
「その音が大事」と、記者は鳥のさえずりや学童の駆け回る足音、すべてを録音し、て耳からすべてを伝えるラジオについて教えてくれた。
 先生の中にも被災している方がいる。自分も心身共に疲労されているだろうに、子供たちのために元気づけている姿が痛々しい。
何か少しでも役に立てれば…。微力な自分が悔やまれる。
 お昼ご飯の場所を探す。
未だ、石巻市内でもお昼を食べられるところは限られている。無論ナビなどアテにならない。
ナビで表示されていても、実際には被災して閉店しているところが多いからだ。
 石巻は、大分復旧が進んでいる。
この「復旧」のレベルが何を指すのか?
 避難所での生活者がいなくなることを指すのか?
半壊状態の家の2階で過ごす人もいるなか、メディアで伝えられている情報は、ほんの一部でしかないことを、家々を見ながら改めて思った。
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 午後からは、女川第二小学校へ。
 震災当日の話を先生から聞いた。
 高台にある、この小学校。校庭の高さ付近まで津波が来た。
先生達は、子供たちに津波を見せないよう、移動させた。無事、欠席者も含めて全ての学童の安否が確認されたのは、震災の3日後。
 先生達は、学童とともに宿泊し、安心を与えることに徹底。
帰り際に見かけた学童が屈託なくはしゃぎまわっているのは、この先生達のおかげでもある。
 学校だよりの中から、以下の文章を紹介してくれた。
「女川は流されたのではない 新しい女川に生まれ変わるんだ」
「人々は負けずに待ち続ける 新しい女川に住む喜びを感じるために」
「今はとてもたいへんだけれど、みんなと協力してがんばっていきます。応援してくれるみんなにありがとう。」
「”今”伝えたいことば~この災害で思ったこと~
 自分のたった一つの命を大切にすること!この世にいらない命はない!いつも笑顔でいること。それだけは忘れないで!」
「女川は壊滅的な被害を受けましたが、負けないでがんばっていこうと思います。まげねっちゃ女川!」
これらは全て学童の言葉である。小さな子供らが前向きであることは、大人たちへの励みになるであろう。
胸が熱くなった。
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 近くにある、避難所。女川総合体育館。
 この町は、漁港を山が取り巻いている地形をしており、いくつかの公共施設は高台にある。
この体育館も、そのうちの一つで、たくさんの方が未だに避難所生活を送っている場所だ。
 二組の方に取材をしたが、そのうちの一人の男性。
 年老いた母が自宅にいて、職場から帰宅。二人で二階に避難。家ごと流され始めて、運よく別な家の1階屋根部分に乗り移り、一晩を過ごした。
津波が引いて、たまたま乗り移った家に瓦礫がたまっており、地面へ降りることができたという。
 流れた自分の家の二階部分は全て壊れてなくなり、あのままだったら無理だった。そう淡々と語っていた。
 自営業を営まれているこの方は、家族全員無事である。
だが、オフィスももちろんなくなり、借金もある。この状態で仮設住宅に移っても、光熱費等は各自の負担となる。さらなる借金が出来るばかり。
無事で何より。だがこの先に行く未来にどう向かっていけばよいのか、まだ考えられない。だが、前向きな心持と思える何かわからないが力強いものをその人から感じた。

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 初日の取材を終えて。
2か月と少し経過したこの時期、ようやく事実を受け止めることができ始めた。そんな感じがした。
今までは茫然と日々やり過ごし、余震の恐怖からも逃れることが出来なかったのではないだろうか?
話を聞く側としても、これが1か月前だったら通訳として対応できただろうか?被災した方の話を聞くだけで、自身も耐えられなくなっているだろうと容易に想像できる。
現地の状況をメディアだけではなく、自分の肌で得てきたものを伝えるべき。改めてそう感じた初日。

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