JGC通訳ボランティアBLOG

2011年4月4日月曜日

【インド救援隊レポート】コラム② 病院訪問

3月31日(木)番外編 女川町立病院訪問の記録 (一原)

 この日は女川町の朝現場到着後、作業開始を確認した上で、一原は女川町立病院を訪問した。Cmdt Awasthi には予め断った上で。
 女川バイパスを海岸に向かって歩く。女川バイパスの路面の瓦礫は両脇によけられている。電柱を立て直している。
 坂を上って、丘の上の女川町立病院へ。4階建ての建物の屋上よりも高い位置にある病院だが、病院入り口付近に横転または大破した自動車が散乱している。
 階段を上って二階通用口から入ると、そこに仮設受付、仮設診察室が作られており、被災地外から集まった多くのボランティアが働いている。
 医師であると名乗り、お手伝いできることをしたいと手近な人に伝えると、院長のいる部屋へ案内された。受診者と多くのボランティアでごったがえす仮設診察室から、ガラス戸一枚を隔てたところが院長や事務担当者のいる部屋。
 院長は山田隆司医師。JGC通訳ボランティアに応募し、インドからの災害対策チーム(National Disaster Relief Force)に同伴し、通訳業務と調整業務にあたっていると説明した。以下は山田隆司医師から聞いた話。
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 地震発生以前は、都内の病院に週3回勤務する傍ら、地域医療振興協会常務理事として女川町立病院の診療を手伝っていた。女川町立病院は、数年前から大学病院から医師派遣を受けられなくなり、医師3人で当直を含めた業務を回していた。
 3月11日に地震が発生。女川町は壊滅的な被害を受け、、周辺に多くの避難所が作られ、多くの孤立集落が発生した。電力・ガス・下水道は途絶し、物資の供給も途絶えた。多くの外傷患者が発生し、町内にあった一つの診療所(おながわ木村医院)も被災し診療不可能となり、慢性疾患患者が診療を受けられる場所は女川町立病院だけとなった。女川町立病院も一回が浸水し、CTやMRIといった機器は使用不能となった。一人いた維持透析患者はヘリで搬送された。
 数日間は非常に厳しい状況だったが、2週間以内に各地から多くの医療者がボランティアというかたちで参集し、物資が供給され、女川町立病院は周辺の被災者を医療面で支える拠点となった。現在は、入院患者の診療、仮設外来での診療に加え、2チームによる訪問診療および避難所巡回を行っている。ボランティアの医師は主に地域医療振興協会の他の病院等から、4,5日間毎に交替で派遣されている。まだ電力・ガス・上下水道は回復しておらず、避難所を出る目途の立たない人は多く、被災者の生活は厳しい状況が続いているが、医療者と医療物資の供給は充足している。
 (院長の今後の役割は?)町の復興にあわせて、業務を立て直してゆかなければならない。数年がかりになるだろう。
 (医師不足が深刻な被災地は?)通信が寸断されていることもあり情報は限られているが、南三陸町はまだまだ深刻な状況と聞いている。
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 上記の説明を受け、女川町での医療活動には参加しない方針を決めた。周囲を散策してからインドチームに合流。

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